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もっと昔の関ヶ原 壬申の乱で活躍した18歳の将

えー、昨日、今日(9月15日)が、関ヶ原の戦いの日だと、Xやらよそ様の記事で、「関ヶ原の戦い2024」のタグを見て青くなった私です。

 もうそんな季節か……、というか、まだ暑いよ! とても関ヶ原の戦いって気分じゃないよ! と思います。まあ実際には日付をそのまま新暦に移してるからこんなことになるんであって、実際は新暦に直すと10月の21日になるそうです。その時にはもっと涼しくなっていて欲しいです(泣)

ja.wikipedia.org

さて、このブログ、あと投資ブログの方では、関ヶ原の戦いで、18歳にして一軍を率いて頑張った武将、小早川秀秋について語っています。(投資ブログの方の記事は、いずれこっちに移したいんですが、SEO的にどうなのかと……)

小早川秀秋についての過去記事↓。

kabuchuhistory.hatenadiary.jp

さて、関ヶ原の戦いよりも900年くらい前、同じあたりで大戦がありました。壬申の乱です。

壬申の乱でも、18歳で将として頑張った青年がいました。

今回は、趣を変えて、約1300年前の関ヶ原壬申の乱で活躍した18歳、高市皇子(たけちのみこ)について語ろうと思います。

壬申の乱とは

壬申の乱とは西暦672年に起きた、大化の改新を実行した天智天皇の同母弟、大海人皇子(のちの天武天皇)と、天智天皇の皇子の、大友皇子との皇位争いの戦争です。

天智天皇は最晩年、同母弟の大海人皇子皇位を譲る、と言いましたが、大海人皇子はこれを断り、吉野に出家して隠棲します。しかし、天智天皇の死後、大海人皇子は、兵を起こし*1、豪族の助力を得て戦に勝ちました。

細かいことは下記を読んでください。↓

ja.wikipedia.org

高市皇子の立場と活躍

で、この乱の中で、高市皇子はどのような活躍をしたかというか、どういう立場だったかというと、大海人皇子の第一皇子でした。ですが、大友皇子がそうだったように、母親の地位が低かったため、皇太子には原則としてはつけない人だったようです。

ただ、他のきょうだいよりは年は上で、「大友皇子には臣下も多くいるが、自分には小さな子供がいるばかりで、一緒に計画をする者がいない」といった大海人皇子に、「私が諸将を率います」みたいなことを言ったそうです。

乱当時、18歳という年齢は、享年から逆算してのものですが、寿命などから考えて、飛鳥時代の18歳って、現代においての24,5くらいだったのでしょうか。まだ若いけど、一応社会人としての経験は多少はある、くらいかな。

とにもかくにも、軍の監督などを高市皇子は任され、父大海人皇子の力となったようです。

乱後は、天武天皇として即位した大海人皇子の皇子たちの中で、皇后鸕野讚良*2皇女(天智天皇の皇女*3)を母に持つ草壁皇子、別の皇女を母に持つ大津皇子に告ぐ、第三位の地位にあったとされます。

さらに天武天皇の死後、まず謀反の罪で大津皇子が死罪となり、次に皇太子の草壁皇子が病死するという事態が起きます。この状況を打開するため、鸕野讚良皇女が持統天皇となり、草壁皇子の子が成長するまでの中継ぎとなります。

持統天皇政権下で、高市皇子太政大臣に任命され、皇族の中でも重きをなします。しかし、持統天皇に先立ち、42歳で死去。一説には、高松塚古墳の被葬者ではないかという話もあります。

ja.wikipedia.org

壬申の乱関ヶ原の戦いの類似点

さて、この壬申の乱と、関ヶ原の戦いの類似点は、場所だけではない、という人がいます。

独裁者だった天智天皇豊臣秀吉の相似、天智天皇、秀吉が生前行った白村江の戦*4朝鮮出兵の類似*5、そして東から攻めた側(大海人皇子徳川家康)が勝利したこと、それと、西側の既成政権が先代の独裁のためガタガタだった、ということが上げられています*6

www.yomiuri.co.jp

 

まあ、壬申の乱で戦った18歳、高市皇子は、同い年だった小早川秀秋よりも、立場的には、勝利側の大将の息子の、徳川秀忠に近いのでしょう*7。しかし、秀忠は関ヶ原の戦いには参加できず、同い年というところで共通の秀秋は、諸般の事情で裏切り者呼ばわりされています。

でも、秀秋もまた、秀吉に嫡子が生まれたら血統的に跡取りにはなれない(正妻の甥で秀吉と直接の血縁がない)、でも秀吉死後、関ヶ原の戦い以後はかなり高い地位にいた、というところで、天下にとても近いところにいながら、天下人にはならずに、あるいは、なれずに生涯を閉じた、というところは共通ですかね。(そもそも二人とも、血統上、自分はトップにはなってはいけない、と思っていたかもしれないし。)

関ヶ原の戦いと、壬申の乱高市皇子に関する話は、こんなところで。

おまけ

ところで高市皇子(たけちのみこ)の名前は、地名の大和国高市郡で育てられたから、だそうです*8。そして、「高市」という名字も存在します。

ですが、地名、そして名字の「高市」は「たかいち」と読むものだそうです。

高市」というつづりを高市皇子で知り、他の地名などには接したことがなかったものですから、名字の方もなんとなく「たけち」と読むと思い込んでいたんです。

ですが、ググってみたところ、「高市」という名字は「たかいち」もしくは「こういち」と読むのだそうです。

某女性議員を始めとする全国の「高市」さん、申し訳ありませんでした。

myoji-yurai.net

(日付変わっちゃったよ(T T)。あー。後の祭り。)

では。

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*1:昔読んだ学習漫画では大友皇子が自分を討つ気配があったからだとも書かれていたような

*2:読みは「うののさらら」とも「うののささら」とも

*3:天武天皇にとっての姪に当たりますが、飛鳥時代は、一番近いと異母兄妹でも結婚できたとか。さすがに同母兄妹はタブーでした。

*4:私は「はくすきのえのたたかい」と習いましたが、最近は「はくそんこうのたたかい」と教えるとか?

*5:ただし、白村江の戦いは、友好関係にあった朝鮮半島百済からの要請もあったという違いがあります。 白村江の戦い - Wikipedia

*6:前述の天武天皇の言葉とは矛盾しますが、実際は大友皇子側も人がいなかったらしいです。

*7: 当時存命だった家康の息子のうち、最年長ではあるけど、母の出自が低く跡取りになれない、というところでは、次男の結城秀康も近いですね。

*8:他の天武天皇の皇子皇女の名前も、そんな感じらしいです。