この記事で書くのは、主にネット上にあった情報を私の脳に記憶したものが元になります。本当は、歴史上の人物に関しては、書籍類を調べた方が確実なデータに行くのですが、今図書館に行くヒマがないし、裏取りもしてないので、かなり不確かなデータを元にした萌え語りとなります。
あんまり真に受けず、これをもとに何か書く際は、再度資料なりサイトなりに、ご自分で当たるつもりでいてくださいね。
さて、何度目かになりますが、小早川秀秋というのは誰かというと、豊臣秀吉の正妻、高台院の甥で、秀吉死後、徳川家康が政権を握るに至った関ヶ原の戦いで、反家康側から、家康側に寝返り、家康側の勝利を決定的にした人、というのがまあ一般的な解釈のようです。
そこら辺の事情に関しては過去記事をどうぞ↓。
こんな番組もあります。
小早川秀秋の生年月日
Wikipediaには、小早川秀秋の生年は載ってても、誕生日は載っていないんですが、旧暦5月8日という説があるそうです。
で、その説に従いWikipediaから生年の天正10年*1を取ってきて、旧暦の天正10年5月8日を誕生日とします。
で、これを西暦に変換。↓
そうすると、ユリウス暦1582年5月29日となります。
しかし、今の暦はユリウス暦ではなくグレゴリウス暦なので、これを変換。
ユリウス暦1582年5月29日はグレゴリオ暦1582年6月8日。
という訳で、小早川秀秋公の西暦の誕生日は今日、6月8日となります。
午年の双子座生まれということになりますが、なんか、せっかち(馬)で頭の回転がはやい人、みたいなイメージが出てきます。占い的なことは、いつか記事にしたいですが、今はこの辺でとどめておきます。
今までの記事で、関ヶ原関連は割と語っているので、プライベート関連でいくつか語っていこうと思います。
領地を転々とした生涯
秀秋は、養父豊臣秀吉が、まだ信長配下の近江長浜城主だった頃に、高台院の兄、木下家定の五男として生まれています*2。その後、数え三歳で義叔父の秀吉の養子となり、天正17年(1589年)、七歳で元服、丹波亀山城主となっています。
そこからまた文禄3年(1594年)、毛利一門の小早川隆景の養子になり、翌年秀吉の後継者で実甥の豊臣秀次の切腹に連座し、亀山領を改易。小早川隆景の隠居に伴い、筑前国名島城主に。
そこから慶長3年(1598年)一時越前北ノ庄城主になり、翌慶長4年(1599年)筑前・筑後の領主になっています。そしてその翌年、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起き、戦で負けた宇喜多秀家の旧領の備前・美作の岡山城主に移封され、そこで死んでいます。
短い20年の一生の間に近江(今の滋賀県)→丹波(今の京都府)→筑前(今の福岡県)→岡山に住所? が変わったことになります。
転勤はおろか、転校すら経験のない私には想像もつかない人生ですが、実際には、基本的に政権中枢のある京都、大阪の辺りにいて、領地には時々行くような感じだったようです。
ちなみに終焉の地の岡山に菩提寺もあり、近年は岡山城の展示テーマの中で、統治期間は短いながらも、歴代城主のひとりとして扱われてます。
実は「秀俊」時代が長い 名前の変遷
「小早川秀秋」として知られる彼ですが、実は死亡時の名前は「秀詮」。よみは「ひであき」で変わらないようです。
昔の人はよく名前(諱)が変わりますが*3、秀秋の場合、最初に7歳で元服した時(1589年)には「秀俊(ひでとし)*4」と名乗っており、1597年、二人目の養父である小早川隆景の死を契機にか、「秀秋」と改名しています。その後、1600年の関ヶ原の戦い後に「秀詮」と改名という順序になります。
秀俊と名乗った期間が約8年間、秀秋と名乗ったのが3年、秀詮と名乗ったのが2年くらいとなり*5、意外と最初の諱の「秀俊」が知られていないため、他の秀吉の養子たちと、資料上混同されることもあるようです。
ちなみに、史料類や歴史コンテンツで使われる「金吾」という通称は、官職名からついたとも、幼名(実親の五男だったたので、「きん『ご』」とつけられたという説)だったとも言われています。(Wikipediaでは幼名は「辰之助」となっていますが。)
朝鮮出兵で大暴れ?
小早川秀秋に関して、関ヶ原以外に意見が分かれるのは、満年齢15か16歳の時に総大将として参加した朝鮮出兵時(蔚山城の戦い)に大活躍をした(あるいは暴れた)か否かという説です。
大活躍説の根拠となっているのは、1600年代に成立した『朝鮮物語』という本があり、これは関ヶ原以降秀秋の家臣となった大河内秀元という人が書いています。
しかし、当時の一次資料(命令を書いた手紙など)にはそうした記述がないことから、おおむね否定されているようです。
一次資料類には私は当たれないので、活字化された、『朝鮮物語』の方を読んでみたところ、このくだりで、刀を使っていたと書かれているのが引っかかりました。戦国時代の武将の近接武器は、主に槍や薙刀などの長いものというのが定説だったはずなので。
その一方で、日本国内はおおむね落ち着いた世の中で育ったであろう、秀秋の経歴を考えると、まったくありえなくもないのかな……とも思ったりもします。
朝鮮物語は戦前に活字に起こしたものが電子書籍で出ているので、良かったら読んでみて下さいね*6。秀秋の戦闘シーンに関しては巻之下にあります。
小早川秀秋のカッコいい小説
フィクションである歴史・時代小説は、とっかかりにはいいのですが、その記述を全部信じるとえらいことになるので、どうしようか迷った*7のですが、最近はこんなイメージで語られることもあるんだよ、ということで、まず短編を二つばかり。
冲方丁氏の「真紅の米」。
後は似たようなコンセプトで、この本の中の天野純希氏の「秀秋の戯」↓
前者は割とまっすぐな、後者はちょっと、のらくらした食えない青年として描かれている感じ。
他に未読ですが*8、長編として有名なのはこの二冊かな。
あとは秀秋メインではないし、小説でもないですが、変わった関ヶ原の解釈(というか創作)の一例として『へうげもの』を。
この作中の秀秋公、個人的には「うま年の双子座生まれ」っぽくて好きです。(苦笑)
無事に冒頭の話とつながったので(?)ここでとりあえずおしまいにします。
もっと秀秋に関する下世話なこと*9も書きたかったんですが、既に3000字を超えておりますので。
では。
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