株中毒のなんでもブログ

株で財産を溶かした管理人の、現実逃避ブログです。時事、歴史ネタ中心。日曜日だけ、メインブログになります。

築山殿と松平信康に関する新説が出ました。

築山殿と松平信康について

去年、大河で扱われたので、覚えておいでの方も多いと思いますが、築山殿(ドラマでは「瀬名」と呼ばれてました)は家康の正妻、信康は彼女と家康との間にできた長男です。

その二人に関してこんなツイートが↓。

ふーん、と思ってみたのですが、これに続くスレッドに、ふあっ!?となりました。

ふあふあっ!?↓

さて、通説を確認すると、築山殿の没年も、信康の没年も、ともに天正7(1779)年とされているようです。

ja.m.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

上記のツイート(ポスト)が確かならば、信康は既存の説よりも、数ヶ月、築山殿は「少なくとも」5年くらい長生き? していたことになります。

詳しいことは上記の『静岡県地域史研究』にあるのでしょうが、没年もずれる、また死因は、家康の処断によるものではない、という傍証が見つかったということなのでしょうか。

掲載誌の扱いは以下の通り。国会図書館には入るみたいなので、静岡県外の人はここが頼りですかね。もちろん貸し出しはできません。(国会図書館は閲覧のみ)まだ、これから専門家の議論を待つ、叩き台の段階なのですね。

ndlsearch.ndl.go.jp

 

築山殿と信康の死に関しては、今まで、「徳川家康の同盟者だった織田信長の命令で、家康が処断した」という説と、「家康と信康の間で仲違いがあった」とか、「家臣が信康をかついでクーデターを起こそうとした」ので家康が処断した、などの説があります。まあ、原因はなんにせよ、家康に殺されたというのが通説です。

それが、そうではないということであれば、ずいぶんと色々なことの解釈が変わってくような気がします。

新説への反応

当然X上は大騒ぎ。

高橋氏のポストでは、信康に関し、そこまでは言い切ってない感じですが、その可能性もあるか……。↓

秀吉の妹と、家康の婚姻も、築山殿の死後そんなに経ってないということに……?↓

これから本格的に、何人もの歴史学者の検証を経ないと、わからないことですが。

変わるかもしれない通説と、変わらない事実

色々な通説が変わるかもしれないことになりますが、変わらないこともあって、家康が妻と長男に先立たれたことは、時期がずれこそすれ変わらないということです。(築山殿に関しては、没年不詳ということになるのかもしれないので、言い切ることは危険なのかも。)

家康は健康に気をつかっていたのと、母のお大の方が長生きだったので、その遺伝もあってか当時としては73歳没と長生きでした。しかしその子供は、信康の他にも、次男の結城秀康と四男の松平忠吉が成人後、若くして病死、その他にも、もっと幼年のうちに早死にした子もいます。家康は子沢山ではあるけど、子供に何度も先立たれてもいるということになります。

家康は、関ヶ原の戦いの時、「せがれが生きていれば……」と、信康の早死にを惜しんでいたとか。信康は生きていれば関ヶ原の戦い時点で、40歳ぐらいなので、20代の秀忠より頼もしかったでしょう。

ちなみに、家康の息子のなかで一番長生きなのが、信康に似てて疎んじられたともいう、六男の松平忠輝で、大名の座を兄の徳川秀忠に剥奪されたんですが、なんと、90歳くらいまで生きたそうです。死亡時の将軍は既に5代目の徳川綱吉だったというから驚きです。

綱吉は、秀忠の孫ですから、綱吉からみたら、忠輝は大叔父に当たります。太平の世になっても、家康を直接知る人が生きてたんですね。

……話が脱線しましたね。失礼しました。

おわりに

話を築山殿と信康に戻すと、興味深い説ではありますが、検証されて、一定の信憑性があるとされても、一般の歴史書籍(本屋に並ぶようなもの)に反映されるのは、もうしばらく先でしょうね。下手すると年単位。それくらい、学術研究には時間がかるのではないかと思います。

では。(この記事誤解がないように書けてるよね……? ((( ;゚Д゚)))……あまりにインパクトの強い新説だけに、書いたかたの足を引っ張らないか不安……。)

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