築山殿と松平信康について
去年、大河で扱われたので、覚えておいでの方も多いと思いますが、築山殿(ドラマでは「瀬名」と呼ばれてました)は家康の正妻、信康は彼女と家康との間にできた長男です。
その二人に関してこんなツイートが↓。
『静岡県地域史研究』第14号に拙稿が掲載されました。抜き刷りの献本は11月ごろになるかと思います。松平信康は天正8年1月15日、蟄居先の堀江で亡くなっていること。築山殿は一次史料により天正13年4月までの生存が確認できること。等々新しい視点を提起しております。 pic.twitter.com/QCc3AjEChH
— 高橋陽介 (@aquable1732) 2024年9月29日
ふーん、と思ってみたのですが、これに続くスレッドに、ふあっ!?となりました。
今後「信康の処断に信長は関与していたのか」「徳川家中の内部対立をおさめるために家康は信康に腹を切らせる判断をしたのか」という議論は不要になるかと思います。そもそも家康は信康を処断していないからです。
— 高橋陽介 (@aquable1732) 2024年9月29日
ふあふあっ!?↓
もちろん築山殿も殺害されていません。
— 高橋陽介 (@aquable1732) 2024年9月29日
さて、通説を確認すると、築山殿の没年も、信康の没年も、ともに天正7(1779)年とされているようです。
上記のツイート(ポスト)が確かならば、信康は既存の説よりも、数ヶ月、築山殿は「少なくとも」5年くらい長生き? していたことになります。
詳しいことは上記の『静岡県地域史研究』にあるのでしょうが、没年もずれる、また死因は、家康の処断によるものではない、という傍証が見つかったということなのでしょうか。
掲載誌の扱いは以下の通り。国会図書館には入るみたいなので、静岡県外の人はここが頼りですかね。もちろん貸し出しはできません。(国会図書館は閲覧のみ)まだ、これから専門家の議論を待つ、叩き台の段階なのですね。
浜松市立中央図書館には13号まで全部入っているようなので、14号もそのうち読めるようになりそう。調査支援室で閲覧のみ。 https://t.co/vKJaqIEWCR pic.twitter.com/bLaDoIgEp0
— ebelastin (@ebelastin) 2024年10月1日
築山殿と信康の死に関しては、今まで、「徳川家康の同盟者だった織田信長の命令で、家康が処断した」という説と、「家康と信康の間で仲違いがあった」とか、「家臣が信康をかついでクーデターを起こそうとした」ので家康が処断した、などの説があります。まあ、原因はなんにせよ、家康に殺されたというのが通説です。
それが、そうではないということであれば、ずいぶんと色々なことの解釈が変わってくような気がします。
新説への反応
当然X上は大騒ぎ。
これは驚いた!本当だったら歴史が書き変わる!読んでみたい。
— fumi (@s_fumi1977) 2024年10月1日
築山殿がそこまで長生きしてたのならあの信康事件はなかったのかな。すごいことになってきた。 https://t.co/AxajsIV8nd
高橋氏のポストでは、信康に関し、そこまでは言い切ってない感じですが、その可能性もあるか……。↓
つまり築山殿は本能寺の変後に小牧・長久手の戦いのあとまで生きていたということで、信康事件は家康が信康に頭冷やせと蟄居させてた最中にたまたま死亡したということ?
— ゆるキャラ侯爵 (@q5811kGPKY4K6sV) 2024年9月29日
これは「どうする家康」を根底からぶっ壊す新説だね(•‿•)#どうする家康 https://t.co/ODK7hpYJcv
秀吉の妹と、家康の婚姻も、築山殿の死後そんなに経ってないということに……?↓
これは驚きで、秀吉の妹と家康の婚姻が天正14年なのは、築山殿が天正13年4月からその頃までに死亡したからでしょうか。私の見識ではとても的確に妥当性を判断できず、議論の盛り上がりを期待していますが、
— 雑記帳 (@Florisbad) 2024年9月30日
この見解が妥当ならば、通説がどう形成されたのかも気になります。https://t.co/K9hwCMmnNz
これから本格的に、何人もの歴史学者の検証を経ないと、わからないことですが。
変わるかもしれない通説と、変わらない事実
色々な通説が変わるかもしれないことになりますが、変わらないこともあって、家康が妻と長男に先立たれたことは、時期がずれこそすれ変わらないということです。(築山殿に関しては、没年不詳ということになるのかもしれないので、言い切ることは危険なのかも。)
家康は健康に気をつかっていたのと、母のお大の方が長生きだったので、その遺伝もあってか当時としては73歳没と長生きでした。しかしその子供は、信康の他にも、次男の結城秀康と四男の松平忠吉が成人後、若くして病死、その他にも、もっと幼年のうちに早死にした子もいます。家康は子沢山ではあるけど、子供に何度も先立たれてもいるということになります。
家康は、関ヶ原の戦いの時、「せがれが生きていれば……」と、信康の早死にを惜しんでいたとか。信康は生きていれば関ヶ原の戦い時点で、40歳ぐらいなので、20代の秀忠より頼もしかったでしょう。
ちなみに、家康の息子のなかで一番長生きなのが、信康に似てて疎んじられたともいう、六男の松平忠輝で、大名の座を兄の徳川秀忠に剥奪されたんですが、なんと、90歳くらいまで生きたそうです。死亡時の将軍は既に5代目の徳川綱吉だったというから驚きです。
綱吉は、秀忠の孫ですから、綱吉からみたら、忠輝は大叔父に当たります。太平の世になっても、家康を直接知る人が生きてたんですね。
……話が脱線しましたね。失礼しました。
おわりに
話を築山殿と信康に戻すと、興味深い説ではありますが、検証されて、一定の信憑性があるとされても、一般の歴史書籍(本屋に並ぶようなもの)に反映されるのは、もうしばらく先でしょうね。下手すると年単位。それくらい、学術研究には時間がかるのではないかと思います。
では。(この記事誤解がないように書けてるよね……? ((( ;゚Д゚)))……あまりにインパクトの強い新説だけに、書いたかたの足を引っ張らないか不安……。)
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